運動競技の一つ。
一塁,二塁,三塁,本塁と四つの塁(ベース)を使用するところからベースボールbaseball と呼ばれ,日本で野球と訳された。
訳語をつくったのは中馬庚(ちゆうまかのえ)である。
アメリカでは別名ボールゲームという。
1チーム9人の選手で編成された二つのチームの間で,より多くの得点を記録して勝つことを目的とする。
このスポーツはアメリカの国技で,その普及はめざましく,中南米,キューバなどカリブ海諸国,アジア,オーストラリアさらにヨーロッパまで広がっている。
日本はアメリカに次ぐ盛んな国で,プロ野球をはじめ,社会人,大学,高校,リトルリーグなど底辺は広い。
世界野球連盟 InternationaleBaseball Association(IBA)には100ヵ国以上が参加している。
1907年,アメリカのナショナル・リーグのミルズ会長を委員長とする6人の委員で〈ベースボール起源調査委員会〉がつくられた。
この委員会は,もと投手で当時アメリカで最大の運動具商のスポルディング Albert Goodwill Spalding(1850‐1915)が依頼して構成されたといわれる。
調査委は,野球はアメリカで生まれたものであり,1839年にダブルデー少将 Abner Doubleday が考案し,最初のゲームはニューヨーク州の郊外クーパーズタウンで行われた,と結論を出した。
クーパーズタウンには,現在野球殿堂が建てられている。
しかし,野球の起源をたどると,すでに1744年にイギリスで出版された J. ニューベリーの子ども向けの《かわいいきれいなポケットブック》の中にbase‐ball の語が出ていることが明らかになった。
これはラウンダーズ rounders という,クリケットから派生した子どもの遊びをさし,クリケット同様に18世紀にはアメリカにもちこまれていたと思われる。
ラウンダーズは1チーム9人の2チームが,ボールとバット(スティック)を用いてラウンダー(四つのポストを一周すること)を争うもので,野球のベースをやや変形した位置に木の棒(ポスト)を立てる。
また,アメリカで生まれたといわれる遊びの中にも,ワナキャット one old cat など,野球の要素を含んだものがあり,結局,これらのボールとバットとベースを用いるゲームが集約され,19世紀前半にベースボールが成立したというのが現在の定説になっている。
初めは人数もまちまちでルールも単純だったが,1839年の A. ダブルデーを経て,45年カートライト Alexander Cartwright により,ニューヨークに最初の野球チーム〈ニッカーボッカー野球協会〉が編成され,同時に15条からなる〈ニッカーボッカー規則〉が定められた。
その規則のおもなものは,
(1)塁間は本塁から二塁,一塁から三塁までがそれぞれ42歩(正方形のフィールド),
(2)21点を記録して勝負が決まる,
(3)投手は下から投げる,
(4)3人アウトで攻守交代,
(5)判定はすべて審判が行い,アピールは許されないなどで,この規則によって今日の野球への第一歩がふみ出された。
翌46年に〈ニューヨーク・クラブ〉というチームとの間で初のクラブ対抗戦が行われ,ニューヨーク・クラブが23対1で勝っている。
このころは野球は上流社会のスポーツで,メンバーは銀行や保険会社の役員などに制限されていた。
しかし,50年代に入ると,商人や店員など一般庶民が参加し,52年から55年の間にニューヨークとその周辺で7チームが誕生した。
こうして年々盛んになるにつれて,1853年には試合の結果が新聞に載り,56年にはゲーム内容を紹介する新聞も現れた。
57年ニューヨーク地区の球団代表者たちは〈全国野球選手協会〉を設立し,以後ルールも,
(1)1試合を9イニングスとする(1857),
(2)投手の投球に対してストライク,ボールを宣告する,
(3)ボール21で一塁を与える(以上,1863)など細かく決められた。
58年には入場料を取って見せる試合が初めて行われ,野球が職業,商売として成り立つきっかけを示した。
60年には西海岸のサンフランシスコにもチームができ,この年は62チームを数えた。
大学スポーツとしても野球は人気を得た。
最初の大学対抗試合は1859年7月に行われ,アマースト大が66対32でウィリアムズ大に勝った。
大学のスポーツ史では,野球はボートレースに次ぐ古いスポーツである。
61年から始まった南北戦争は,63年にチーム数を28までに減少させたが,この戦争に駆り出された東部,北部の選手たちがボールをしのばせて戦場に赴いたことで,多くの人たちが野球という新しいスポーツを覚えて故郷に帰った。
64年ブルックリンの A. J. リーチという選手が,他チームから移籍を求められて金銭を要求し,初めて〈給料を取る選手〉となった。
これがきっかけで,69年〈シンシナティ・レッドストッキングズ〉と名のる史上初のプロ野球球団が出現し,5月15日にプロ野球として最初の試合をオハイオ州で行い,41対7で相手のアンティアックに勝った。
レッドストッキングズは翌70年まで130連勝を記録した。
こうして1871年には9球団で〈ナショナル・アソシエーション〉が結成され,76年には再編成が行われ,8都市の球団が加盟して〈ナショナル・リーグ〉が誕生した。
これに対抗する形で82‐91年に〈アメリカン・アソシエーション〉,84年に〈ユニオン・アソシエーション〉,90年には〈プレーヤーズ・リーグ〉が出現した。
後2者はそれぞれ1年で解散され,92年以後はナ・リーグのみが残った。1900年,マイナー・リーグだった〈ウェスタン・リーグ〉が〈アメリカン・リーグ〉と改称し,翌年からリーグ戦を行ってナ・リーグと対立した。
当時はそれぞれ8球団で,観客はナ・リーグが190万人,ア・リーグが170万人を動員し,上々のすべり出しだった。
03年には両リーグ間の調停のためナショナルコミッションが生まれ,その結果各リーグの優勝チームで争う〈ワールド・シリーズ〉が開かれるようになった。
第1回はア・リーグのボストン・レッドソックスが5勝3敗でナ・リーグのピッツバーグ・パイレーツを下し,ここに2メジャー・リーグ制は確立した。
14年には〈フェデラル・リーグ〉がメジャー・リーグとして設立されたが,2シーズンしか続かなかった。
1919年のワールド・シリーズはシンシナティ・レッズ(ナ・リーグ)とシカゴ・ホワイトソックス(ア・リーグ)で争われたが,予想に反しレッズが5勝3敗で勝ったため,ホワイトソックスは野球笛博にからんで八百長試合をしたといううわさが流れた。
調査の結果8選手が告発されたが立証できず,21年シカゴ高等裁判所は全員無罪の判決を下した。
これが〈ブラックソックス事件〉である。これを機に大きな裁量権をもつコミッショナー制が設けられ,20年12月,連邦裁判所判事 K. M. ランディスが就任した。
同年はニューヨーク・ヤンキースに移籍したベーブ・ルース(B. ルース)が本塁打を量産して注目を集めた年であったが,事件のしこりは観客動員数の減少をもたらした。
ランディスは疑惑の8選手を永久追放にし,この厳しさがファンの信頼をとりもどすことになった。
また,21年のワールド・シリーズからラジオ実況中継も始まり,29年にヤンキースが背番号を採用(前例はある)して新鮮味を加えた。
33年には一少年の投書がきっかけで,〈夢の球宴〉といわれるオールスター・ゲームが開設された。
20世紀前半の名選手にはタイ・カッブ,ベーブ・ルース,L. ゲーリッグらがいる。
第2次大戦後の話題の一つは,1945年にドジャースの B. リッキー会長に見込まれ契約し,47年一軍入りして大リーグ初の黒人選手となった内野手 J. ロビンソンである。
激しい人種差別の中で好成績をあげてナ・リーグ新人王となり,以後 W.メーズや H. アーロンなど多くの黒人選手が活躍する道をひらいた。
すでに1885年には黒人のプロチーム〈キューバン・ジャイアンツ〉がつくられ,1920年には黒人ナショナル・リーグが結成されて,優秀な選手が出現しているが,その中の一人,サッチェル・ページ投手も48年にクリーブランド・インディアンズに入っている。
やがて大リーグのすべてのチームに黒人が加わるに及び,いくつかあった黒人だけのリーグは人気を失っていった。
大リーグの野球が企業として完全に成功すると,それまで東部中心だった球団を西部にも置くことになり,1958年にドジャースがロサンゼルスへ,ジャイアンツがサンフランシスコへ本拠地(フランチャイズ)を移した。
それとともに新しいファンが開拓され,球団数も増加し,61年にア・リーグ,62年にナ・リーグが2球団を加えてともに10球団となり,69年には両リーグともさらに2球団増やすと同時に〈東西地区制〉をとるようになった(ア・リーグは1977年から14球団)。
93年からナ・リーグに2球団増えて両リーグ各14球団となったのを機に3地区制(東,中,西)とし,さらに,地区優勝シリーズを加える方式をとった。
カナダにもエキスポズ(モントリオール),ブルージェイズ(トロント)の大リーグ球団が置かれている。
球団が増えるとともに,有望選手獲得のためには大金を出すようになり,64年にはエンジェルズが大学の選手に20万ドルという破格の契約金を支払った。
これがきっかけとなって選手を順番に指名するドラフト制度が採用されたが,しかしこれに対しては個人の自由を妨げるとして訴訟もたびたび行われ,75年には契約なしでプレーして翌年は自由に移籍するものも現れた。
いまや年俸1000万ドルの選手も珍しくない。