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プロフィール
うみの イルカ

2010年09月21日

足利義昭

1537‐97(天文6‐慶長2)

室町幕府15代将軍。

足利義晴の次男。

母は近衛尚通の女。

尚通の子城家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称した。

1565年(永禄8)兄義輝が三好三人衆に弑逆(しぎやく)されたとき幽閉されたが,細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出,近江の和田惟政を頼り,のち矢島に移って義秋と名のり,従五位下左馬頭に叙任して将軍となる意志を明らかにし足利義栄に対立した。

そして若狭を経て越前の朝倉義景のもとに赴き,68年元服して義昭と改名した。

上杉輝虎(謙信),武田晴信(信玄),北条氏政,毛利元就らに上洛援助を依頼していた義昭は同年織田信長に奉ぜられて入洛を果たし,征夷大将軍に任ぜられたが,政治の実権は信長の手中にあったため,70年(元亀1)5ヵ条の要求受諾,72年信長の異見17ヵ条提出など,両者はしだいに反目し,73年(天正1)ついに浅井,朝倉,武田諸氏と結んで挙兵したが,信長に一蹴されて幕府は滅びた。

すでに武田信玄は病没し形勢は不利であったが,義昭は悲願を捨てず六角承禎,河野牛福,武田勝頼,上杉謙信,北条氏政,徳川家康,本願寺顕如,毛利輝元,島津義久らに幕府回復を依頼し,76年には備後鞆(とも)に移居して毛利氏と織田氏とを断交させ帰洛運動の拠点とした。

毛利氏は初め本願寺を支援したが信長の装鉄船が出現したため制海権を失い,陸戦でも羽柴(豊臣)秀吉に圧迫されるようになった。

しかし本能寺の変で信長が倒れたため,義昭は再び京都復帰を図って秀吉,柴田勝家,徳川家康らを説得し,竜造寺政家や島津義久に援助を依頼したが実現しなかった。

その後88年の聚楽第行幸を機会に京都に帰り出家して昌山と号し,三后に准ぜられ,92年(文禄1)の朝鮮出兵には肥前名護屋に従軍した。

病没して等持院に葬られ,霊陽院殿と諡(おくりな)された。義昭が執拗に京都復帰運動を展開できたのは将軍家の権威がなお精神的規範として戦国大名の間に作用しえたからであって,足利将軍家の最後を飾る行動として評価されるべきである。


Posted by うみの イルカ at 00:00